社会福祉法人うみのほし福祉会 児童養護施設 浦上養育院(長崎市)

社会福祉法人うみのほし福祉会 児童養護施設 浦上養育院(長崎市)

事業所の運営理念

「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とのカトリックの愛の精神に基づき、聖母マリアに倣い、社会の必要に応え、人々にキリストの愛をもたらすよう努めます。
上記の理念に基づき、児童養護施設においては、児童福祉法の理念に則り、家庭において適切な養育を受けることができない児童を家庭に代わって養育する。その実践にあたっては、カトリックの愛と奉仕の精神をもって育み、児童の必要に応えるよう努める。

目標とする児童像

  • 生命を尊び、畏敬の念を持つことのできる子ども。
  • 真の自由を解し、規律を尊重する子ども。
  • 自分の生活を創り出し、整え、共同の場、将来は社会生活の場で自分の役割を果たすことのできる子ども。
  • 動物、植物、自然への関心を持ち、大切にする子ども。
  • 限られた生活範囲だけでなく、世界に目を向けることのできる子ども。
  • 日常生活の場で親切や思いやりを実践できる子ども。

方針及び目標

  • 家庭に代わる場として、子どもたち一人ひとりが十分に愛され、受け入れられていると感じることができるよう努める。(子どもの声に耳を傾け、その思い、言葉、行いに暖かい理解を示す)
  • 心の傷を癒すための専門的治療(心理療法:カウンセリング他)
  • 健全なる社会人となる素地を築くための教育、学習の充実及び文化、芸術、スポーツ等の諸活動を通して、個性、可能性の伸長を図る。
  • 自立支援の強化(食事作り、アルバイト体験、職場見学他)
  • ホーム構成は、少人数の家庭的規模を保ち、全体的には集団生活の利点である協調性、諸行事を通しての協力、助け合い等対人関係について学ぶよう支援する。
  • 家族再統合を目指し、親、親族との関係改善への支援を行う。

創立までの歩み

創立者 岩永マキ像

慶長18年12月22日、徳川家康が下した禁教令によって、キリシタン弾圧の時代が始まった。慶応4年から明治3年にかけて、俗に浦上四番崩れといわれるキリシタン村浦上の一村総流罪が行われ、信者は名古屋以西の21か所に流された。信者はこの流罪を「旅」といった。
明治6年2月24日、約250年に及ぶキリシタン禁制の高札が撤去され、つづいて同年3月14日には浦上キリシタン釈放の太政官達しが出され、信者たちは次々と故郷浦上に帰ってきた。その中にマリア岩永マキ、マリア守山マツ、カタリナ片岡ワイ、マダレナ深堀ワサの四人もいた。
故郷の田畑は荒れ放題で、家や財産はもちろん、農具も夜具も炊具すらなかった。こうした苦しい生活も一年たち、やっと一息つけたと思ったとき、明治7年に伊王島に発生した赤痢が浦上にも飛び火し、また8月21日には台風が襲来し、ようやく実りかけた畑の作物は吹きちぎられてしまい、赤痢はますます広がっていった。
この時、患者の治療、防疫、被災者の救護活動に当たったフランス人宣教師、マルコ・ド・ロ神父の手足となって献身的に働いたのが、この四人の乙女らと、深井咲太郎、野口卯八、山本常吉らの青年で、みな生命を的に信仰を守り通した人たちであった。
マキ等四人は活動の立場上からも、はじめから合宿生活を続けた。宿を貸してくれたのは、ドミニコ高木仙右衛門であった。この場所が移転前(S59.3月末まで)の浦上養育院の敷地である。赤痢がようやくおさまると蔭之尾島に天然痘が発生し、ド・ロ神父とマキ等の活動がまた始まった。天然痘がおさまって浦上に帰ってきたマキは、ひとりの赤ん坊を抱いていた。天然痘で両親を失った孤児タケである。最初は蔭之尾島の福十という人の家で、ついで浦上本原郷のサワの家を買って、そこに収容した。この場所が今現在の敷地である。これが浦上養育院の初めで、浦上の人たちは「小部屋」とも呼んでいた。

苦情解決公表

当施設での苦情解決につきましては下記に公表いたします

令和3年度苦情について

現在の所苦情はありません。

令和4年度苦情解決

外部からの苦情はありませんでした。
入所児童からの苦情については、当人と関係者、必要に応じて職員会議等で話し合い、その
都度解決いたしました。